先日、子どもと一緒に公園へ行った。

自分はベンチ横でバスケのハンドリング練習。

子どもは砂場へ。

それぞれが自由に過ごす、いつもの休日だった。

事件は、砂場で起きた。笑

4〜5歳くらいの子たちが数人集まり、

砂場を囲んで真ん中に水をため、泥遊びをしていた。

楽しそうだな、と思って見ていたその瞬間。

3歳の息子がダンプカーを持って、

「ダンプカーもきました!!」

と、全力で輪の中へ入っていった。

――数秒の沈黙。

視線が集まる。

「誰?」

「なんで入ってきたの?」

そんな空気。

言葉はなかった。

でも、はっきり伝わる“無言の拒否”。

そのまま、息子は戻ってきて

「お父さん!遊ぶよ!!」

と、少し怒った声で言った。

正直、胸がキュッとした。

可愛いし、切ないし、

親として何かしてやりたい気持ちも湧いた。

親は、入るべきだったのか?

頭をよぎったのはこの問い。

「今、間に入った方がよかった?」

「一緒に遊んでいいよって言えばよかった?」

でも、立ち止まって考えた。

これは“いじわる”だったか?

これは“失敗”だったか?

たぶん、違う。

これはただ、

社会の入口に立った瞬間だった。

子どもは、教えなくても学んでいる

今回、息子がやったことを振り返ると、

自分から輪に入った 受け入れられなかった 無理に居座らなかった 安心できる場所に戻ってきた

これって、

大人が社会でやっていることと同じだ。

勇気を出す。

うまくいかない。

撤退する。

信頼できる場所に戻る。

3歳なりに、ちゃんと“判断”していた。

親が

「こう言いなさい」

「順番守りなさい」

と教えなくても、

経験そのものが学びになっている。

親の役割は「社会性の先生」じゃない

この出来事で、一つはっきりしたことがある。

親の役割は、

子どもをうまく社会に馴染ませることじゃない。

失敗しても戻ってこれる場所でいること。

無理に輪に戻させない。

相手を悪者にしない。

「大丈夫だよ」と言葉にしなくても、

笑顔で一緒に遊ぶ。

それだけで、

子どもは「また行ってみよう」と思える。

親が出るべき瞬間も、確かにある

もちろん、全部見守ればいいわけじゃない。

危険があるとき 明らかな暴力や威圧があるとき 子どもが固まって動けなくなっているとき

このときは、迷わず出ていい。

でも今回みたいな

「仲間に入れなかった」

「空気が合わなかった」

は、守るべき失敗じゃなく、

通るべき経験なんだと思う。

公園は、社会の縮図!?

公園には、

年齢も、性格も、ルールも違う子がいる。

相性が合うこともあれば、

合わないこともある。

それは大人の社会と同じ。

親が全部調整してしまえば、

子どもは「整えられた世界」しか知らない。

少しの悔しさ。

少しの戸惑い。

その全部が、社会性の材料になる。

ただ基地でいること。

この日、息子は砂場の輪には入れなかった。

でも、親子で別の遊びをして、笑って帰った。

それでいいと思っている。

社会性は、

親が教え込むものじゃない。

行って、ぶつかって、戻ってきて、また行く。

その繰り返しの中で、自然と育つものだ。

親は先回りしすぎず、

突き放しもせず、

ただ“基地”でいる。

公園の砂場が、

それを教えてくれた午後だった。

親として、子どもにかけたい言葉の話

今回の出来事を通して、

改めて思ったことがある。

それは、

子どもにかける言葉は「正解を教える言葉」じゃなくていい

ということ。

輪に入れなかったとき、

怒って戻ってきたとき、

親がやることはアドバイスじゃない。

まずは、気持ちを言葉にして返す。

例えば、こんな感じでいい。

「そっか、入りたかったんだね」 「イヤな気持ちになったよね」 「びっくりしたね」

これだけで、子どもは

「自分の気持ちは分かってもらえた」

と感じられる。

少し落ち着いてきたら、

答えを与える代わりに、選択肢を渡す。

「また行ってみる?」 「今日は別の遊びにする?」

どちらを選んでも正解。

決めるのは、子ども自身。

そして一緒に遊ぶときは、

評価よりも、存在そのものを肯定する。

「一緒に遊べて嬉しいな」 「さっき、勇気出して行ったね」

「えらい」「すごい」じゃなくて、

“そこにいていい”というメッセージを残したい。

家に帰ったあとも、

成功・失敗として振り返らなくていい。

「公園、いろんな子がいて面白かったね」 「また違う日もあるね」

それだけで、その経験は

嫌な思い出じゃなく、

ただの一つの風景になる。